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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

第105号 安歴博保存のきっかけが判った。

▼鎌田正胤の母からはがき代大枚を頂いたのでやっと配信。鎌田の母は私ども芳山小学校時代の恩師である。

▼安積歴史博物館に通うと色んな情報が入って来る。『民家・町並み・洋風建築』草野和夫著が著者自身から安歴博に送付された。中に旧福島県尋常中学校本館=安歴博、保存の経緯が記されている。

▼その内容は=昭和三五年(と言うから、私達が高校二年の時の話である)。草野氏は当時、郡山工業高校建築科の教諭で県南高校演劇部のサークル指導をしていた。その会長が安積高の津口信男校長であった。雑談の席で草野氏は津口校長から安積高校建替えの話を思いがけずも聞かされた。

▼その頃氏は日本建築学会で洋風建築の遺構保存の必要性を説かれ、意識、開成館、金透記念館などの実測調査などをしていた。旧本館建替えの話を聞いたので、思わず安積高校本館の洋風建築の見事さ、保存の重要性などを一五分ほど熱っぽく話したそうな。氏は当時三十才そこそこ、親ほども違う校長は不愉快そうな面持ちで「わかった」とさえぎった。しばらく思案の後、「そんなに残す必要があるなら、県に伝えるから、あんたが今話したような理由を『虎の巻』に書いて寄越してくれ。この建物の図面も付けなければならないからあんたのところの生徒(郡工生)に弁当代程度ででも手伝わせて図面を作れ。」との言葉が出た。その頃、我ら生徒に圧倒的人気を得ていた大校長を髣髴とさせる話ではないか。

▼昭和三六年二月薄く降り積もった雪の中、氏は郡工建築科、建築同好会の生徒二十名と(部活の一環では有ったが)足場を組む費用も無く、長い梯子を頼りにで遺構実測調査をした。図面一式、建造物の価値と保存の必要性を強調した所見書を付して、津口氏に託した。との事。

▼その後は現に建物が残っている事がすべてを証明している。

▼物好きな私は前記書籍のあと付けを頼りに手紙を出した。氏は現在八十才越し、東北工業大学建築科名誉教授である。偶然に十月末に郡山工業高の同級会に呼ばれ磐梯熱海に来た。お会いし当時を懐かしみながらの話を聞き私なりに再記述した。

安積歴史博物館保存にあの津口校長が一役買っていたのか

▼所で高二当時の演劇部は故八木秀文?、国分司?の二人のみ安藤義信、熊田喜宣の美術部が舞台装置を手伝い、私はエキストラで出演した。

▼岩淵成紘?退職後、月〜木東京住いで東京大学勤務だと。うらやましい。

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