▼浪人生はめでたく一年遅れでそれぞれ目標の大学へ入学。
▼事件は昭和三八年の春起こった。津口は高校受験失敗の息子を持つ中学校長に頼まれ、偽合格証を渡す。東京の高校入学に使うからとの条件で。しかし定員に満たない県内新設高校の校長がその生徒を自分の学校に入学許可させた。おさまらないのは同時に受験に失敗した子を持つ父。「どうしてその子だけが高校へ」と教育委員会に通報。偽合格証が発覚した。
▼津口には同情の声が寄れたが辞任。しかし即国士舘大学から、学長代理へとの声が掛かった。これは大槻(村上)三美、金沢(仲本)幸弘。76期の山口孝夫、川原田芳生等安積高野球部から送り込んだ卒業生が品行方正高い評価だったからである。
▼東京で逐一新聞情報を聞いていた私、父に津口宛て餞別をせがんで当時安高1年の弟村田哲二79期に届けさせた。「おう、補習科に居た熱海の村田の弟か!」と弟から聞き、嬉しかった。校長宿舎を引き払い、染本ホテルの一室に移った。そこには別れを惜しむ生徒の親達が餞別を持って列をなした。とは「鉄瓶の口に空気を吹き込み鉄瓶を膨らます様な」高橋哲夫の弁。
▼津口が東京に立つ七月五日の朝、授業は午前中で打切り。津口の妻、荘は郡山駅入場券全校生徒分買って渡した。しかし駅から中止の依頼が入った。やむなく、県南交通の待合広場前に全員集合。前生徒会長大河勝正77期が送辞。ブラスバンドと校歌で校長を壮行。三年生だけがホームへの入場した。
▼それでもあふれんばかりのホーム、列車が動き出す。荘は窓か
ら落ちそうになるばかりに身を乗出し、手を振った。『おまえら元気でなぁ』。主人公は依願退職の身、座席に座って動かなかった。
▼荘は常日頃、校内を我が家の庭のように着物姿で犬を連れて散歩して生徒たちを我が子の様に声をかけて居たのである。
▼辞任から新校長赴任までの二週間は渡辺永吾(ホラテン)は最大限の配慮を払い、校長を代理した。
▼津口が浪人生のための設置した補習科も二年で消滅した。
▼それから二二年月日が流れ津口は死去、安積高百周年式典に妻、荘は招かれた。その後数日を紅葉館に滞在し、夫妻と関わりの様々な人が尋ねてきた。中に津口の郡山女子高時代の教え子と言う女性も来た。良く聞いたら川田昌成の腹違いの姉だと知った。川田は笑い飛ばすが、川田の父昌孝37期は妾の子供の通う郡女のPTA会長をしたのである。
PDF版はこちらから107号をクリック