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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

今泉正顕さんへ追悼の言葉

9月28日死去した、今泉正顕さんの私なりの追悼の言葉です。
恐縮ながらおわかれの会のリーフレットに納めて頂きました。

福島県青年海外協力隊を支援する会会長の今泉正顕氏にお仕えして

福島県青年海外協力隊を支援する会 前事務局長、村田英男

平成六年六月、それまで休眠中だった、福島県青年海外協力隊を育てる会(後に支援する会)が再開されました。その年の12月に開設される青年海外二本松協力隊訓練所の支援機関としての復活でした。

青年海外協力隊の創設に関わった故末次一郎氏が旧い友人である、当時福島に在住していた渡邉五郎三郎氏に全国にある協力隊を育てる会の一つとして福島県の会復活を願い、依頼したものでした。

渡邉五郎三郎氏は古くからの友人である今泉正顕氏を会長に推挙し、事務局を郡山商工会議所内に置き、私を事務局長とする事で、その活動が始まりました。

平成七年一月に初めての訓練生を受け入れ、それと共に年三回の入所式、終了式で都合六回の二本松訓練所通いが始まりました。今泉会長はよほどの不都合が無い限り欠かさずそれらの式に出席して訓練生への祝辞、挨拶をこなしました。

一方私は育てる会の仕事として派遣中の隊員との連絡、帰国隊員の就職斡旋、隊員希望者の相談など。福島県隊員OB会と連絡を取りながら仕事をこなしました。隊員現職派遣制度は郡山市、鏡石町で成立させました。これだけ仕事がこなせたのは今泉会長が私の仕事にほとんど口を挟まず、好き勝手やらせて下さったからで、部下としてとても働き易かったです。

私は仕事ぶりが評価されてか平成八年秋に隊員の父兄が赴任先を訪ねる協力隊隊員視察の旅に四十人を引率する団長としてアフリカに派遣されジンバブエを視察してまいりました。団長とは言え、半分は団員の面倒を見る添乗員の役割、仕事でした。

平成十年、今度は今泉会長が視察の旅にアフリカに派遣される番です。主催する東京の協力隊育てる会事務局に私は今泉さんの依頼で『今泉会長は旅行といえば通訳付き、飛行機は(費用負担するから)ビジネスクラスでよろしく』と言いました。若い事務局員が『村田さん、何勘違いしているんだ、自分も先に参加してわかるでしょう。半分は仕事なんだから!それに団員は皆エコノミーに乗っていくんだよ』と怒りながら言うのです。

そこに助け舟を出して下さったのが元協力隊事務局長の黒河内康さん(タンザニア、ナイジェリア、スイス大使)でした。穏やかな口ぶりで『だいたいの事は私がやるから』と。しかも幸運が重なり、中継地のヨーロッパまでは黒河内さんが大使をしていた任国のスイス航空だったので破格の待遇だったのです。どの程度今泉さんは知っていたのやら、帰ってきて今泉さん『村田君、非常に良い旅をしてきたよ』との事でした。

八年間事務局長と今泉さんに仕え、協力隊の関わりで私はネパール、スリランカなどの活動現場も視察しました。。しかしJICAにも顔が広い隊員OBの荒正文氏に事務局長を受け継ぎ、今泉さんには会長職に留まって頂こうと勝手に考えて居ました。しかし、『村田君が辞めるなら』と私に引きずられるように支援する会会長をおやめになったのです。

しかし会長を辞した後も顧問としてその職責は旺盛で、その後の会長を勤められた蓮佛氏、須佐氏に代わって、度々訓練所の入所式などで訪問され挨拶などもこなしておられました。

今泉さんは平成15年7月にJICA(当時、国際協力事業団)から国際協力功労者として表彰も受けたのです。私も自分の事の様に嬉しかったのを覚えています。今泉さんの下で働き、人の動かし方を行動をもって教えて頂きました。

合掌。

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