毎年開催、巨大家族の大集会
●先月のある日、我が旅館は非常ににぎやかだった。通常はほとんど個人客なのにこの日ばかりは団体宴会の様だった。同級会のようだが年齢の幅が広いのである。バラバラに予約された個別のお客様が一緒に交流して盛り上がっているのである。聞くと「高玉鉱山OB会だ」と言う。だが待てよ。こんなに若い(60代)が居るはずは無い。この疑問を解くためにお客様の小橋一良さん(街こおりやまの川柳の選者である)と谷藤菊男さんに改めて尋ねた。
●高玉鉱山の歴史を要約すると、古くは16世紀の頃、芦名盛興によって開かれたとものの本に書いてあるが近代鉱業としての発祥は大正7年との事であった。昭和4年日本鉱業の経営となり、最盛期には従業員千五百人、その頃は子沢山だったから家族を含めると七千五百人があの山に住んで居たのである。やがて金を掘り尽し昭和37年に閉山を決め分離独立を高玉鉱山(株)となって昭和46年に閉山。そして昭和51年に完全に人は居なくなった。
●その後、全国の鉱山に散っていったOBが昔を懐かしみ年に一回、磐梯熱海温泉、一力に集まる様になった、高玉鉱山OB会である。その内に会員はだんだん家族も連れて来るようになった。その間、昭和63年に「高玉鉱山の思い出」と平成7年に「続・高玉鉱山の思い出」の文集を出して居る。
●年数を経てOBの老齢化でその家族(子供)の参加が増え、『OB会』から『偲ぶ会』と変わって本年は30回目、年に一度の再会を楽しみに全国から150人が馳せ参じた。しかし残念な事に会員の高齢化で本年幕を閉じると聞く。
●どうして毎年の再会でこれだけ盛上がるか、「鉱山」はひとつの町、コミュニティ。住宅(六軒長屋と言うそうな)、鉱山の生産施設が在るのは当然として、他に生活の場として供給所(百貨店)、集会所、グラウンド、病院そして鉱山には欠かせない山神社まで有るのだ。
●コミュニティには欠かせないのが毎年の行事。「お祭り」の日は小学校は1時間で終了。脱兎の如く帰り道を急ぐ。ふもと田代から山神社までボンボリが並ぶ。集会所前は多くの出店。夜には花火が上がり。クライマックスはナイヤガラと言われる壮大な仕掛け花火であった。
●「大運動会」の人気種目はマラソン。山から岩代熱海駅往復10Km。転がるように下り、帰りは急な登りが待受ける。その標高差200Mである。締めくくりは部落対抗リレーであった。
●岩代熱海から勿来まで貸切列車で「海水浴」に行った事もあった。子供から大人まで高玉鉱山は一つの巨大な家族なのであった。
●あれから30年。離れ離れになった大家族の年に一度の再会が今年もあった。名残を惜しむ仲間が大集会の後、個人ごとで我が旅館に数組宿泊された事を私はやっと理解した。
●いつの頃からかこの国の住民は個人とかプライバシーを大切にする世になった。そして集団の中で苦楽を共にする人付き合いの大切さ、温かさ、楽しさを失ってしまった。その事をこの高玉鉱山偲ぶ会の皆さんは私に教えてくださったのである。
江田
2009年12月17日
貴重なお話、ありがとうございました。
30回も続いたこと、それが今年で終わる・・・。
読ませて頂き、感謝申し上げます。