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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

街こおりやま平成22年9月号

私の父はHibakusha 2

●先月号でHibakushaとしたのは『被爆者』は英語になっているからである。なのに核廃絶は進まない。今年、ルース駐日アメリカ大使が広島平和記念式典へ出席した事も65年経って今頃かと思う。

●先月号、爆発で父は左頬にやけどをして、木造の建物が柱だけになったまで書いた。それから先自分が見た生き地獄は記憶から遠ざけたいのか急に口が重くなる。母は『しゃべっちゃくねんだから、あと聞かさんな』と言って昔、父が書いた手記をよこした。以下。

●「ヒリヒリ」と、頬が痛い。大分時間が経って、衛生兵が「ヨードフォルム」と白い布を持って来た。営門そばの倒れかけた木造医務室、薬品の入ったガラス戸棚は、爆風で散乱し、やっと探した黄色いヨードフォルムの粉を傷口に振って、布でぐるりと頬かぶり。精一杯の手当て
である。

●営門遥かに、火の手、煙が上がり始める。午前十時頃か、命令あり。「爆風に依る民間人負傷者を、隊は収容援助する。負病兵以外は出動!」

●私も「何のこれしき」と皆に続いて飛び出す。私の所属は、暁第二九五三部隊、この総合グランドの要地防空が任務である。中隊幹部は独断で営門の開放に踏み切ったらしい。この頃になると、煙と火の手が一層強く広がる中を、老幼男女、負傷の民間人が次々営門を入って来る。

●大部分の人は半袖姿だったろう。両腕が火ぶくれ、水ぶくれ!皮がむくれて、垂れ下がって居る人もかなり居る。頭の髪の毛が「づるり」と抜けた女の人。膝下の火ぶくれで一歩一歩がやっとの人、いづれも衣類はボロボロ、さながら乞食である。目を原爆でやられて見えない人が、
両腕をだらりと下げて、足を引きづっている人に付き添われて入って来る。全ての人のその声は余りに弱く、低く、聞きとれない。何というすさまじさ。なんたる悲惨さ。一体何が起き、何でこんなになったのか。不明!不明!

●こんな恐ろしい現実を、真昼間今迄誰が見た事があろうか。私達はこれ等の人達を、日の当たらない兵舎内に導く。その数は三、四百人にもなったろうか。

●苦しみ、悶える、これ等の人々に薬もなければ、医者も居ない。小さな教育隊故、三、四人の衛生兵が忙しく飛び交うのみ。「水を、水を」と必死に叫ぶが、死期を早めるから、大量の水はいけないとの事。励まし、慰め、手拭等で患部を冷やすことが精一杯。

●無我夢中。昼食はいつだか記憶は無い。、静かになった人がそちこちに出て来る。寝たのかと思ったが、次々に死亡して行くのだった。

●五、六才位の可愛い男の子が死んで居る傍らに、小学校四、五年生位の姉であろうか。両眼をやられて目が見えない。「トシちゃん、トシちゃん」と、傍らの弟の頭をなでて居る。目の見えない姉は、弟に手を引かれてここまで逃れて来たのである。同輩、皆、涙・・・。「弟さん
は大丈夫だよ」「トシちゃんは、元気だよ」交わる交わる嘘の励ましである。どうか、この女の子だけでも助かって貰い度い。神に祈り、仏に祈って我々はささやき合う。

●右往、左往のうち夕日がかげり始める。怪我人を訪ねて来る人は、誰一人ない。どこの誰か、だれも知らない。全市は火の海の模様。病人、死人の届け先もない。

父の手記、さらに続く

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