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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

街こおりやま平成22年10月号

私の父はHibakusha 3

私の父はHibakusha 1
私の父はHibakusha 2

●9月号から続き。昔の父の文章に私が加筆合作。以下。

●「民間人を、兵舎脇の三菱の建造中の社宅へ収容せよ」の命令が出た。全市が火の海でみな今夜の寝る所がないのだから当然だ。

●続々来る民間人を手を引いて、背負って、急造のタンカで引率し招き入れる。兵も、下士官も、将校も皆夢中。身体はくたくたの中、夕闇が迫る。

●恐ろしい、白昼夢。今迄誰も経験した事がない。いたましさ!腹正しさ!疲れた体に頭が混乱する。何なんだ!何なんだ!分からない。夜に入り、各班より二名宛の不寝番。社宅に来た怪我人の看護。

●手足の不自由な、目のみえない、髪の毛の抜けたボロボロ姿の瀕死の病人が、真っ暗い闇の中「水を下さい」「助けて下さい。」と両手を前に垂らして這い出し、兵に取りすがる。正にこの世の生き地獄!三人や五人ではない。うめき苦しむ数十人!あんなに恐ろしい、あんなに長
い夜の時間は無かった。

●八月六日原爆の日、一日一晩で身近で五十三名の尊い生命が消えたと聞いた。私は教育隊の一兵卒だから、収容中に最終的に幾人亡くなったのか分からない。唯、毎日が凄く暑い。死体は、引き取りにも来ないし、届け先も無い。暑さで腐って来る。使役兵が、各班より出て、社宅
の広場で材木を井桁に組んだ上で火葬にした。ただようその臭いは今も忘れられない。

●広島は四日四晩、燃えに燃えて焼野原となった。中国地方第一の大都市広島が、一発の原爆で潰滅し、二十数万の生命が消えた。あの日の、瞳に焼きついた光景、絶対忘れる事は出来ない。

●私たち教育隊は8月15日にそれまでの江波から宇品の船舶輸送司令部に移動した。宇品港から戦艦でどこかに移動する予定だったらしい。建物は殆ど燃え尽き一面焼け野原の中を行軍した。江波と宇品は直線で3km程度、爆心地より南部に位置するが川が何本も横切って居て橋も破
壊されたのか廃墟の街中を一旦北上して南下して3時間は歩いた。そして宇品に着いた。

●昼時、整列をした。身長順で一番後ろで前が見えない。状況を聞くと「将校が泣いている」との事。そして「戦争が終わったらしい」と聞こえてきた。その日からは誰も上官に敬礼などしなくなった。

●宇品は爆心地から4Kmほど離れていて被害が少ない為、爆発の翌日から船舶司令部・暁部隊は市内の救援活動や警備活動をしていた。そこに合流したのがちょうど終戦の15日だった。私はそれから宇品に3週間ほど居た。9月5日に復員許可証が出てリュックサックに貰える物は何
でも詰込んで広島から大阪、北陸、新潟と経由、貨物列車で乗り継いで9月初旬に郡山駅に降り立った。

●駅前、麓山、舞木と別れ住む肉親たちを回って歩き、結局妹の住む長者町の長屋で父と再会した。気丈なあの父が大粒の涙をこぼした。その父が原爆投下直後の広島まで私を探しに来たと聞かされ。また驚いた。

●終戦後かなり後に江戸家猫八も暁部隊での原爆遭遇を知った。前述の通り多くの兵隊は市内で被曝者救護活動のため高濃度残留放射能の二次被曝で復員後は生涯にわたって体調不良に悩まされた。しかし私の教育隊は江波に居て直後から爆心地付近に行く事がなかった事が幸いした
のか後遺症は出なくて済んだ。

●私の戦争出兵は終わった。

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