トップページ社長の雑記帖きらくや亭主のサイバー日記 > きらくやの出来るまで2

きらくやの出来るまで2

第2回、新しい旅館像を求めて。

新形態旅館探し

  93年、94年、と年を追うたびに営業収支は悪化していった。 私はそれを不景気のせいとは思わなかった。 不景気と言う言葉の対極には今までのような好景気が有るはずとの思いがある。 しかしあのバブルの時代への揺り戻しは、 残された私の一生の中にはまず有るまいと考えたからである。
  それより明快な定員と料金の関係、室料と食事代の区分をして、 お客様の信頼を得る旅館にすれば必ずお客さまはついて来る、そう考えた。
  95年のある時、旅館案内雑誌『じゃらん』の営業社員が来た。 広告として利用する気は無かったが話を聞いて、驚いた。 2〜3人の個人客を集めるのに広告を出している旅館が有るのである。 その頃当館の主流はまだ一番売上げ効率の良い5〜15人のグループ、 小団体で有ったからなお更である。   その営業社員に『じゃらん』で広告を出していて利益が上がっていそうな 旅館を紹介してもらいたいと頼んだ。イメージは小規模、省力化旅館である。
  東京本社から社員が飛んで来た。 彼らにも改装後の当館にクライアントになって欲しいとの願望もあったろう。 とにかく金にもならないのにリクルートの上司は参考になりそうな旅館を リストアップしてくれた。 それを参考に私、専務(家内)、母の3人で一緒に、ある時は一人で色んな旅館を訪問した。
  95年暮れ、遂にイメージする旅館を見つけた。 伊豆長岡温泉『華の湯』である。女将花房美代子さんは老舗「陶芸の宿はなぶさ」 の社長の妹で女将役をしていたが、自分が思っている旅館を作りたい。 そのコンセプトは無駄を省いてコストを安く、お客様にはもっと身軽に何度も温泉に来て頂きたい。 そうして出来上がったのが94年開業の『華の湯』であった。
  通常型旅館から個人型旅館に切り替えると宴会場(広間)が要らなくなる 。華の湯スタイルを当館に当てはめた場合、 宴会客用の広間を日帰り入浴客の休憩室に転用開放しよう。 デッドスペースがなくなり収入も上がるまさに一石二鳥と考えた。
  1週間後、両親と家内を連れて再び伊豆長岡の地へ来た。 元々保守的な父が首を縦に振らないのは承知の上であったが、 母と家内は私の意図をすぐ呑み込んでくれた。

コンセプト作り

  違ったコンセプトの宿泊施設にする為には多少は平面プランを替えなければならない。 違った業態になるのだから名前も変えなければならない。 それには工事を伴う。年が明けて工事費借入金捻出の銀行の説得資料を作り始めた。
  改装工事のポイントは
1、女性客の方が多くなるので女子風呂をより大きく。
2、風呂を楽しんでいただく為のサウナの付帯工事。
3、夕食、朝食の会場となる食堂の工事。
4、昼間は日帰り客に大浴場を開放するので宿泊客専用風呂を別に設置。
などであった。
  工事に当たり客室は一切、手をつけなかった。 但し宿泊客専用風呂設置の為、一室潰した。
  経営計画策定はまだ、「一泊朝食+日帰り休憩」は実績の無い業態でのだったので、 雲を掴むような話だった。 只、郡山近辺は深く掘れば温泉が出る場所で独立型の日帰り入浴施設はすでに多く有った。 調査会社に依頼してそれらの経営実態を調べたり、 自ら日帰り入浴客となって訪問した。 そして磐梯熱海温泉全体の誘客の中で考える私どもの新形態へのニーズは、 単独型日帰り入浴施設よりやり易いだろうと手前勝手に結論漬けた。
  調査会社の資料を参考に売上げ計画、経費計画を立案し、 それを多年度化し借入金返済計画へと導いた。 多年度シミュレーションと建築計画には旅館経営研究所(現リョケン)木村臣男氏の世話になった。 「これは社長の考えですから失敗しても社長自身の責任ですよ。 但し上手く行ったら旅研の手柄にして下さい」と冗談を言った。 設計と建築工事は長年付き合いの深い観光設計と渡辺建設(福島市)の世話になった。
  計画はどんどん進んでいく、なのに銀行から融資決定の連絡が一つも来ない。 不思議に思っていたら融資担当者は私と銀行上司に挟まれて苦労していた。 せっかく私が作った経営計画は反古にされ、 従業員削減型の一泊二食旅館の計画に直してしまっていた。 ここで我を通していたら前進しない。 ぐっとこらえ彼の作った経営計画を丸呑みしてとにかく融資のOKを受けた。
  ホテルは客室売上げ、レストラン売上げ、宴会売上げと分離されている。 しかし旅館は一泊二食付きだから明確に客室売上げ、 飲食売上げの分離がされていない。 その中で私の計画は一見して利益の元になる飲食売上げを捨てて客室売上げに 軸足を移そうというのだから通常の経営感覚の持ち主なら反対するのも当然だろう。 しかし売上げ増加には経費増加が伴う事、 最近ますますそれが割りに合わなくなってきている事を私は感じていたのだ。
  新規の借入れ金は1億8000万円。 工事費だけでなく休業期間中の運転資金、退職金、人件費などが4000万円も含まれた。 長期借入れ総額は3億円を越した。それでも過去の根抵当範囲内であった。 バブル期には修繕工事をしながらも無意識のうちにも着実に借金を減らしておいた事が救われた。

工事着工

  これらの新業態への計画の遂行は混乱を避けるため、 従業員には休業一月前まで新旅館構想(解雇通告)は一切発表しなかった。 只、支配人には新旅館移行後も継続勤務していただきたいと話し、 彼が共に働き易い残すべき従業員の相談などもした。
  紅葉館最後のお客様は96年6月末で終了し7月からは3ケ月旅館を休業して工事に掛かった。 従業員は支配人の他3名を継続雇用、その他の従業員は会社都合の解雇で退職金を支給。 雇用保険の支給も手伝った。更に職種が合えば10月に再雇用も有る事を話した。 解雇者の内訳(正社員)は調理場3名、フロント2名、客室係6名、パブリック1名であった。 (清掃、夜警は外注)

  私達夫婦と残留従業員の仕事は食堂のメニューを考えたり、 過去のお得意様にDMを出したりと沢山有った。 新旅館をイメージするために全員を伊豆長岡温泉華の湯まで連れて行った。

外国人客受入れを発想

  お盆期間、建築工事も休業した。旅館も休業中ではじめて夏休みを取った。 お盆期間に一人客が宿泊出来ないことは人一倍知っている。 私は青春18切符を購入し、鈍行でJRを二日掛けて下関まで乗り継いだ。 下関からはフェリーで釜山へ。 三泊四日を釜山、慶州、ソウル、と回り下関から再び二日がかりで戻ってきた。 総額6万円の8日間の気ままな外国旅行であった。
  旅先で、ソウル駅の案内所の紹介で宿泊した旅館は各国のバックパッカー (リュックを背負って安旅行)の溜まり場だった。 そこでJAPANESE INN GROUPE(外国人個人旅行者を受入れる日本旅館集団) のパンフレットを見つけた。 これから計画の新旅館に外人客が来る来ないは別としてJAPANESE INN GROUPEに 入会して窓口は広くしておこう。 そのパンフレットを見ながらそう考え、帰ってきて当時の沢会長さんに早速電話した。
  その時はインターネットからお客様が来るなどとは考えてもみなかった。

きらくやの名前ときらく猫

  新しい旅館の名前はぎりぎりまで決まらなかった。 ずばり名前で分かる旅館がほしかった。 『わがままや』『くつろぎや』『きままや』いろいろな名前が浮かんでは消えた。 いつのまにか『きらくや』が出てきた。 前の旅館との営業母体の継続性を考え、旅館であることを意識して『紅葉館きらくや』と決めた。
  伊豆長岡温泉『華の湯』を訪問した時、パンフレットに蛙が載っていた。 当館もイメージキャラクターが欲しいと専務が提案し猫を採用した。 当時私たちは自宅で猫を飼っており、 そのボヤーッとくつろぐ様子に来館のお客様がリラックスして欲しいとの思いを絡ませたのである。 これは当たった。猫のカットがかわいくて来る女性客も居るほどである。