みんなの安積歴史博物館へ3 番外編
昭和39年7月5日。郡山駅頭にて津口信男学校長と妻荘を送る
●一枚の写真を見つけた。「津口校長を送る」と書いてある。この人こそ私が本誌六月号で書いた安積歴史博物館保存のさきがけを作られた津口信男校長である。
●津口は私達が入学した昭和34年に安積高に赴任した。私達に一生懸命勉強せよとは決して言わなかった。「青春を楽しめ!」と言った。私はそれを忠実に守り、遊びほうけ卒業しても行く大学も無かった。予備校に通う費用も無かった。
●津口の号令一下「じゃぁ、浪人学級を作ろうか」と安積高生を主に田村高、須賀川高の浪人生も一緒に含めて補習科を設立した。クラス担任は竹花栄明。私は北東の外れの物置を片付けを手伝い、教室にした。
●補習科開設。多くの先生が補講を勤めた。そんな中、喫煙癖の者も居た。校長自ら補習科に来た。「すまんが、高校生の手前、教室でタバコを吸うのを止めて貰えないか」「替わりに校長室の中にバケツを置くから」との事。こうして校長室の衝立の陰で煙草を吸う事となった。
●補習科も終了し、東京へ無事進学した春先、津口校長に不祥事が発覚した。高校入試に失敗した子供の親が偽合格証書を発行してもらって別の高校に入学をしたのである。別に私服を肥やした訳でない。しかしその子を思い、公文書偽造となってしまった。
●安積高職員は教育委員会に嘆願書を出そうとしたがそんな事を本人は決して望まないだろうと自主的に引っ込めた。
●校長宿舎を引払い、ホテル染本の一室移った。そこには餞別を持って並ぶ、父兄、教師が列をなしたという。
●すぐに国士舘大学から副学長への誘いが来た。それは津口がそれまで国士舘に送り込んだ品行方正優秀な生徒の実績を買われ、さらに東京に来て生徒集めを手伝って欲しいとの事で有った。
●校長官舎は学校敷地内にあり津口信男妻荘はいつも和服姿で犬を連れ学校内を散歩していた。安高生といえばわが子同然、別れの朝が来た。荘は子供達全員に郡山駅入場券を送った。
●そして駅前で壮行式。生徒会長が送別の挨拶。ブラスバンドをバックに壮行歌、校歌を歌う。残念ながら三年生だけ入場。汽車は動く、肝っ玉母さんは転げ落ちんばかりに身を乗り出し「おまえら、元気でなぁ」。当の主人公は依願退職の身。じっと座ったまま車窓から顔を出そうともしなった。
●その後、多くの生徒は国士舘大学に行き津口と親交を深めた。
●先日、安積高校校長、県教育委員長を歴任した吉田弥氏から自叙伝を頂いた。それによると、氏は昭和28年に津口校長の須賀川高から教師の第一歩を踏み出した。5月に県教育長の授業視察を受けた。翌日、氏は学校長から教育長のこの若い教師のへの将来の期待の言葉を聞かされた。それに《校長はこちらに慈愛の視線を注いでくれていた。心の芯が熱くなった》と記している。
●私たち生徒ばかりでなく教員も皆、津口を慕っていたのである。
國分晴夫
2018年3月15日
俺は74期の國分晴夫と言い、津口校長は俺達がクラブをやっている時に必ずその練習を散歩がてら見に来てくれたのが瞼に残っています。今、あれだけの傑物に会うことは有りません。