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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

私の父は被爆者(ヒバクシャ)です。

8月6日を前に朝日新聞が被爆者の手記を掲載しています、張本勲さんも平山郁夫さんの体験が載っていました。その文章に刺激を受けて、私の父がかなり以前に手記を残しておりましたのでそれを、アップロードしました。

私の父は現在93歳。何の後遺症も白血病もありませんし、被爆手帳も持っていません。しかし、数十年も昔、父は母と広島に行き、原爆資料館をみようと前まで来た時、その昔の経験がよみがえり、気持ちが悪くなり、胃の中の物をすべて吐しゃし、とうとう見ないで帰ってきたそうです。

私の原爆体験記 村田 喜男

昨夜午前二時頃、B29の飛来で砲座(高射砲)に着いた為、いつもの朝礼が二時間のびて、午前八時よりとなった。

 朝礼!吾等甲幹教育隊二百名は、通常通り、要地(広島市観音町総合グランド)内の営門通りに整列した。中隊長蜂須賀中尉の下、東に向かって宮城遥拝、脱帽して頭を下げる。

 一瞬つむった目に「青い鋭光!」続いて、左頬にたたきつけられる様な熱風。左耳に突き通る轟音。左耳が「ガーン」と何も聞こえない。「あっ」と手を左頬に当てる。拳大に皮がむけている。

 「全員、伏せ!」の号令。将校始め、全員その場に伏して、後方の五坪程の、爆風でゆがんだ木造倉庫裏に隠れる。「一体何だろ」うか?」私達は百米程先の営門付近に一トン爆弾が落ちたのかと思った。

 もうもうたる茸雲が、暑い日差しを真っ暗にする。皆呆然と空を見上げる。その顔に、道路に、白いシートに、バラバラと黒い雨。私はこの時、黒い雨を初めて見た。

 ふと前方を見る。朝夕見慣れた三、四百米先にそそり立つ三菱の大工場のシブキイタ下布板がなんと一枚残らず落ちているではないか。柱の間から向こう側の青い空が見える。全員呆然自失とはこんな事だろう。暫くして「待機」の命令。土台なしの木造三角バラック兵舎に戻る。

 「ヒリヒリ」と、頬が痛い。二十名位は火傷した様子。大分時間が経って、衛生兵が「ヨードフォルム」と白い布を持って来た。営門そばの倒れかけた木造医務室、薬品の入ったガラス戸棚は、今の爆風で散乱し、やっと探して来たそうだ。黄色いヨードフォルムの粉を傷口に振って、布でぐるりと頬かぶり。負傷者への精一杯の手当てである。

 又、上部より伝達、「爆弾の名称は不祥、強力な新型」との事。営門遥かに、火の手、煙が上がり始める。

 公用外出中の上等兵が帰って来た。B29よりの一発の爆弾は、近所ではなく四、五粁先の広島駅と比治山の山間地点の上空に落ち、輪が広がって炸裂した由。

 午前十時頃か、命令あり。「爆風に依る民間人負傷者を、隊は収容援助する。負病兵以外は出動!」

 私も負傷して居るが「何のこれしき」と皆に続いて飛び出す。私の所属は、暁第二九五三部隊、船舶高射砲幹部教育隊。この総合グランドの要地防空が任務である。中隊幹部は独断で(最もどこに間に合わせようとも、命令を受けようもなかったろう)営門の開放に踏み切ったらしい。

 この頃になると、煙と火の手が一層強く広がる中を、老幼男女、負傷の民間人が次々営門を入って来る。

 八月六日の暑くなりかけた朝、大部分の人は半袖姿だったろう。両腕が火ぶくれ、水ぶくれ!皮がむくれて、垂れ下がって居る人もかなり居る。頭の髪の毛が「づるり」と抜けた女の人。膝下の火ぶくれで一歩一歩がやっとの人、いづれも衣類はボロボロ、さながら乞食である。目を原爆でやられて見えない人が、両腕をだらりと下げて、足を引きづっている人に付き添われて入って来る。

 全ての人のその声は余りに弱く、低く、聞きとれない。何というすさまじさ。なんたる悲惨さ。

 一体何が起き、何でこんなになったのか。不明!不明!

 こんな恐ろしい現実を、真昼間今迄誰が見た事があろうか!拙い私の筆等では到底この真相をお伝え出来ない。

 私達はこれ等の人達を、日の当たらない兵舎内に導く。その数は三、四百人にもなったろうか。

 苦しみ、悶える、これ等の人々に薬もなければ、医者も居ない。小さな教育隊故、三四人の衛生兵が忙しく飛び交うのみ。「水を」「水を」と必死に叫ぶが、死期を早めるから、大量の水はいけないとの事。励まし、慰め、手拭等で患部を冷やしてあげることが精一杯のこと。

 昼食をどう食べたか記憶が無いが、静かになった人がそちこちに出て来る。寝たのかと思ったが、死亡して居るのだった。

 体格の良い、他部隊の中尉が死んでいると云う。歩いて営門を入って来た筈だ。外傷が何も無い。俯向けて腕を両脇に不動の姿勢であった。衛生兵は、心臓をやられたのではないかと云って居たが・・・。

 五、六才位の可愛い男の子が死んで居る傍らに、小学校四、五年生位の姉であろうか。姉は、両眼をやられて目が見えない。「トシちゃん、トシちゃん」と、傍らの弟の頭をなでて居る。目の見えない姉は、弟に手を引かれてここまで逃れて来たのである。同輩、皆、涙・・・。

 「弟さんは大丈夫だよ」「トシちゃんは、元気だよ」交わる交わる嘘の励ましである。どうか、この女の子だけでも助かって貰い度い。神に祈り、仏に祈って我々はささやき合う。

 右往、左往のうち夕日がかげり始める。怪我人を訪ねて来る人は、一人も居ない。何処の誰か、何人も知らない。全市は火の海の模様。病人、死人の届け先もない。兵の休憩所、今夜の寝る所がないのだから。「民間人を、兵舎脇の三菱の建造中の社宅へ収容せよ」の命令。

 手を引いて、背負って、急造のタンカで引率する。兵も、下士官も、将校も皆夢中。身体はくたくたの中、夕闇が迫る。

 恐ろしい、白昼夢。今迄誰も経験した事がない。いたましさ!腹正しさ!疲れた体に頭が混乱する。何なんだ!何なんだ!分からない。夜に入り、各班より二名宛の不寝番。社宅に居る怪我人の看護。

 一夜明けて、八月七日今日も暑くなりそう。兵舎を出ると広島は焼え続けて居る。私達は昨夜の不寝番に当たった友に、夜の様子を聞いた。

 手足の不自由な、目のみえない、髪の毛の抜けたボロボロ姿の瀕死の病人が、真っ暗い闇の中「水を下さい。」「助けて下さい。」と両手を前に垂らして這い出し、兵に取りすがる。正にこの世の生き地獄!三人や五人ではない。うめき苦しむ数十人!あんなに恐ろしい、あんなに長い夜の時間は無かったと恐怖の顔付きで話してくれたのを覚えている。

 八月六日原爆の日、一日一晩で身近で五十三名の尊い生命が消えたそうである。私は教育隊の一兵卒だから、収容中に最終的に幾人亡くなったのか分からない。唯、毎日が凄く暑い。死体は、引き取りにも来ないし、届け先も無い。暑さで腐って来る。使役兵が、各班より出て、社宅の広場で材木を井桁に組んだ上で火葬にした。ただようその臭いは今も忘れられない。 広島は四日四晩、燃えに燃えて焼野原となった。中国地方第一の大都市広島が、一発の原爆で潰滅し、二十数万の生命が消えた。 あの日の、瞳に焼きついた光景、三十年経った今も忘れられない。この世に二度と原爆を許してはならない。この世から、絶対に原爆、原子核を廃絶しなくてはならない。

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