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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

街こおりやま平成22年8月号

私の父はHibakusha 1

●父は5月20日に心不全で救急車で病院に運ばれ。集中治療室なのに周りの状況が分からず『朝ご飯は無いのか、テレビは見れないのか』と騒いだ。すぐ普通病室に移動、94歳の誕生日を迎え、1週間後に退院した。かたわらに面倒見の良い腰元(母)が従える殿様(父)は。以降通常生活となった。

●夏が来るとポツリと話す。父は広島原爆の被爆者である。幸いな事に何の後遺症も出なかったので『原爆手帳』は持っていない。以前に頼まれて書いた原爆体験の手記は有るが面と向かって聞いた事は無かった。ここで聞きだして置かないと後悔すると今回聞き取りを試みた。

●父は身長150cmで丙種合格、当時28歳、チビで母は赤紙(招集)が来るとは思っていなかった。昭和19年6月、(私は生後3カ月)に出征した。配属は暁部隊(船舶高射砲連隊)。最初は大田区久が原、すぐ広島市江波に移った。仕事は輸送船の護送だった、しかし敵飛行機は1万mを飛び、高射砲の射程は7千mだったので撃ち落としたのは見た事がなかったと笑う。

●戦争末期、招集されても兵隊は居るが指揮官が居ない状況だった。入隊するとすぐ甲種幹部候補生を勧められた。当時中学5年を卒業している者は資格が有ったそうな。もっと学歴が上の者は乱造の幹部候補生を馬鹿にして志願しなかっ
た。しかし、彼らは輸送船と共に台湾方面に遠征、多くは海の藻屑と消えた。父は泳ぎは出来ないが勉強は好きとだったので幹部候補生を志願、教育部隊に配属、広島に留まり、おかげで海に沈まずに済んだ。

●昭和20年7月中旬、赤痢菌が見つかり広島第一陸軍病院に入院した。入院中は幹部候補生の座金を外し本物の軍曹に間違えて貰った。入院中の生活は30人を従える部屋長で仕事は朝の点呼のみ。「軍曹殿!室長殿」と上げ膳、据え膳と快適な生活だった。赤痢菌が出ると三週間は退院出来ない。しかし、入院後に菌は一匹も出ない。根が真面目な父は軍医に頼みこんで二週間で退院した。

●楽を求め、ぬくぬくと病院に居れば父は8月6日には爆心地の陸軍病院に居たはずで、私と母はすんでのところで母子家庭を逃れた。

●さて運命の8月6日。午前二時頃、B29の飛来で砲座(高射砲)に着いた為、いつもの幹部候補教育隊約100人の朝礼は二時間遅れて、午前八時となった。宮城遥拝し(皇居に向って頭(コウベ)を垂れる)一瞬つむった目に「青い閃光!」続いて、左頬にたたきつけられる様な熱風。左耳に突き通る
轟音。左耳が「ガーン」と何も聞こえない。「あっ」と手を左頬に当てる。拳大に皮がむけている。(その時から左耳が難聴になった)

●「全員、伏せ!」の号令。将校始め、全員その場に伏して、後方の五坪程の、爆風でゆがんだ木造倉庫裏に隠れる。「一体何だろ」うか?百米程先の営門付近に一トン爆弾が落ちたのかと思った。もうもうたるきのこ雲が暑い暑い夏の日差しを遮った。皆呆然と空を見上げる。その顔に、道路に、白いシートに、バラバラと黒い雨。この時、黒い雨を初めて見た。

●ふと前方を見る。朝夕見慣れた四百米ほど先にそそり立つ三菱の大工場のしぶき板がなんと一枚残らず落ちているではないか。柱の間から向こう側の青い空が見える。全員呆然自失。暫くして「待機」の命令。土台なしの木造三角バラッ
ク兵舎に戻る。
==来月号に続く==

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