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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

第93 号 無理せず、長生きして下さい。

▼福島県旅館組合の仕事である温泉に行った。『よおぅ』と先方から声を掛けられ気が付いた。藤森英二64 期である。全然市長の頃と顔が違う。ストレスに解き放たれた非常に穏やかな顔つきである。改めて市長職の重責を感じた。大変ご苦労様でした。

▼九月五日森藤隆夫?塙厚生病院院長逝去。佐久間惣一?ホンダプリモ福島中央 に思い出を語ってもらった。

▼森藤は福島医大に入学早々、通学汽車の中で素敵な女性を見つけ、彼女から来た葉書を握り締めデートに付き合ってくれと言ってきた。彼女の下宿に迎えに行き三人で喫茶店に入った。それが彼の最初のデート。二人はじっと見詰め合ったまま動かない。俺はアホらしく途中帰った。その後猛烈アタック。それが今の(旧姓、天野)アヤ子夫人であった。

▼医大を卒業後は新潟大学医学部、ニューヨーク州立バファロー大学に留学。母校福島医大の講師、助教授を勤めた。先輩教授と年の差が無くJA塙厚生病院転進を決意させたと思う。

▼病院長は医者と経営者を兼務する。塙では好きなゴルフも断って経営改善に取り組んだ。一応自動車ディーラー経営者のはしくれでもある小生にいろいろ聞いてきた。そして県内六ケ所の厚生病院の収益トップに押し上げた。

▼彼は俺にだけ肝臓の大家と自慢していた。それが専門の肝臓が蝕まれ5年以上も苦しんでいた。回りにも俺にも何時会ってもにやりとした顔しか見せなかったのにアッと逝ってしまったことは騙されていたとしか思えない。

▼彼は自分自身の体が何時どのようになるかを知って居たし、妻にも詳しい事は教えるなと後輩医師にも釘を刺していた。専門の肝臓と戦って敗れた森藤と黄熱病に倒れた野口英世が重なる

▼俺は妻アヤ子の連絡で死ぬ数日前に会えた。顔色や握り返えす握力でおれも死を悟り病室を出てから一人泣いた。俺だって、脳梗塞で倒れ、やっとリハビリして懸命に戦っているのにどうして先に行っちゃうんだ!

▼旅館業は思わぬ人が宿泊される。当旅館に飾ってある「二一世紀枠甲子園出場絵皿」を見て「安積の出身ですか」と聞かれる。「ハイ」と答え、改めて宿帳を書いて頂いた。細川彰74 期。昨日の事はすぐ忘れるが五十年も昔のことは忘れない。中学生(郡山二中)の頃、職員室前、模擬テストの成績発表でいつも一番に書いてある名前であった。半澤紘喜、斎藤公一など一つ年上の知っている名前が飛び出した。友達の友達は皆友達だ。

▼東大工学部を卒業、東レを退職現在滋賀県草津市に住み、たまに墓参りに帰って来るとの事。

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