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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

第98号 米寿を迎えた高橋哲夫恩師。

▼高橋哲夫恩師の米寿の祝いをご指南子の伊藤正義の音頭でささやかに開催した。十八参加。

▼珍しい顔は鈴木浩市、遠藤晴幸。塚原克利。常盤安英。常盤は言う。『先生を結婚式に呼んだ。主賓とは通常、嘘でも新郎を成績優秀、品行方正と持ち上げるが先生にはコテンパに罵倒され披露宴のその後はその話題で盛り上がった』だから来ないわけにはいかないと。

▼以下、高橋のスピーチ。はじめに歴史の授業をちょっぴり。詳細は後に譲る

▼次いで自分の生い立ちから現在に至るまでをポイントを押さえ初公開。十人兄弟の七番目。小学校を卒業すると給仕になった。それ以降、親から援助を頂く事は一切無かった。自分が進学出来なかった田村中学を横目に独学で相馬の小学校教師になった。月給三五円。当時師範学校出の教師は四二円、このままでは永遠にうだつが上がらない。大学に入るため東京行こうと決断した。図画の勉強をして専科教員資格を得て大田区の小学教員となった。昼に勤め、夜間大学に行き、さらに上を目指した。二年目から特待生となり生活も楽になった。

▼二四才で卒業、会津高等女学校の教諭となった。当時小学校校長は月給八五円の時、八十円を頂いたので努力の甲斐が有ったと思った。戦後で組合活動が強く職場から組合専従を送り出した。ところがそいつが職場に戻ってくると皆はそっぽを向く。反骨心が頭をもたげ二人で頑張った。

▼昭和三一年煙たがられ官舎を用意いただき転勤した先が安積高だった。当時の高校生は『女学校から来た』と言うだけでヒューと野次られたものだ。

▼君たちも知っていたかも知れないが安積では私と橋川(琢二)が日教組だった。しかし、アメリカの原爆が侵略の原爆。ソ連の原爆は防衛の原爆などと言うし、アメリカの原爆では毛が抜けてもソ連のは毛が抜けないのかと怒って脱退した

▼自由民権運動の研究で評価を受け四八才の若さで福島県文化功労賞を受賞した。今の資料収集はコピーがあって便利だが私たちの研究は書き写し。この書く事(コピーが無い事)の『不便の便』で書きながら覚えたものだよ。福島民報では連載をかなり書き稿料は沢山頂いたから足を向けて寝れないよ。

▼その後湖南、棚倉と教頭を勤め、猪苗代高を経て昭和四八年田村高校長になった時は感慨ひとしおの気持ちが沸き出てきた。『入学したくてもかなわなかった学校の校長になったぞ』と

▼現在は長年世話に成った細君を恩返しのつもりで毎日面倒を見ている。

▼高橋がなぜ絵を書くのか、左翼が急に変節したか疑問が解けた。
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