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「三谷幸喜のありふれた生活」の向こうを張って「きらくや社長の月並みな生活」を初めました。2008年1月からきらくに思いつきで始めました。どうぞご笑覧下さい。

街こおりやま平成21年11月号

今泉正顕氏にちょっと曲げられた私の人生今泉正顕 JC20周年 私の郡山JC回想録
●郡山街作りの偉大なる指導者、今泉正顕氏を偲んで書いた。(2009年9月28日ご逝去)

●私が中学生の時(昭和32年頃)音楽の磯谷幸枝先生は男女の声のバランスの為に盛んに男子を合唱部にスカウトしていた。私は自ら合唱部入りを志願したが「村田君は声変わりしていないから後でね」と言われた。今思えばスカウトされた男は体がでかく皆(チンポに毛が生え)大人になっていたのだ。
(何をかくそう。現在、全国合唱コンクール金賞、常連校、郡山市立郡山第二中学校の52年前の話である。)

●昭和33年に市民会館が出来た。その11月に合唱コンクール全国大会が市民会館を使って開催された。その時幸運にも「関西学院大学グリークラブ」が私の旅館に貸切宿泊した。総勢100人近く、大広間での発声練習からコーラスまで。その時の黒人霊歌(深い川)の観客は贅沢にも私一人だった。

●その中三の秋、労音(郡山勤労者音楽協議会)が出来、磯谷先生は私に入会を勧めて下さった。合唱団入りを断った事を覚えて居たからだった。

●年を取ると昔の事を覚えて居るというが、労音の演目は第一回の巌本真理からアリゴポーラ、石井好子、五十嵐喜芳、潮田益子、野辺地勝久、見砂直照と東京キューバンボーイズ、原信夫とシャープスアンドフラッツ。藤沢嵐子とオルケスタ・ティピカ東京。藤原歌劇団砂原美智子の蝶々夫人、二期会成田絵智子、小田清のカルメン、バレー白鳥の湖、東京混声合唱団、など。ジャンルもクラシックからシャンソン・タンゴまで。ビッグバンドからオペラまでなんでもあった。

●同級生の広長守彦君の兄威彦さんが「むぎぶえ」と言う労音機関紙の表紙の絵を描いていた。あの「むぎぶえ」が手元にあればあの頃をもっと詳しく書けるのだが。

●60代後半以上の方は懐かしいと思う人も多いだろう。こんなステージを当時人口10万人の郡山市は最盛期には定員2千人の市民会館で三日間公演した。そして、ゲバントハウス交響楽団、ボストン・シンフォーニー、アムステルダム・コンセルトヘボウオーケストラと東京、大阪、名古屋でしか公演しなかった名門も誘致して成功した。その事と比較すると今の郡山の聴衆は20分の1以下だろう。

●大学生になる東京に出ると労音の延長で都民劇場とN響定期の会員になり良く東京文化会館に通った。下宿から3分の杉並公会堂は国立音楽大学の卒業オペラ公演の本拠地はだった。勝手に入って立ち稽古を見た。フィガロの結婚、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛とほとんど只同然で見れた。

●30代青年会議所に入会、郡山JC20周年の出し物「花柳寿美雄演出のJC歌舞伎」で私は助六の役を貰った。主役の私と一番高価な衣装、意休役・川田昌成は浅草までワゴン車でその時の小道具を返しに行かされた。その車中、私は川田に車を運転させ脇で、20周年に配布された「今泉正顕著・私のJC回想録」を読んだ。

●その時の驚きを私は忘れない。今泉さんはJC以前に若干32歳で当時の丹治市長に東北一と言われた、市民会館を作りを任されその運営収入確保の為の労音を組織し音楽を誘致した事を知った。

●あの市民会館と郡山労音が無かったら私は音楽鑑賞の趣味にのめり込む事は無かったのであった。

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